お客様と歩み続けて13年…
|
- 2013/12/02(Mon) -
|
こんばんわ。
オーナーの宮本です。 先日から、とある計画の為に、今まで撮り溜めた写真を隅々見ながら整理しておりました。 この13年もの間、いろいろなコトがございましたが、何もかもがいい思い出と感じます。 ただ、 その頃に戻りたいかと言われればそうでもなく、今が一番いいと感じることにはある種、幸せを感じます。 そりゃあ誰しも、若い方が良いと思って当然ですが、これから達成していくことへの楽しみにはかないません。 常々私が話しております、ミヤモト家具の第二創業期は、今では比べモノにならないくらいに希望に満ち溢れています(まぁ、当然私が目標としているところに辿り着ければの話ですが…笑)。 先日、うちの幹部に、5年先までの私の中期計画を見せた所、大賛成してくれたので、俄然やる気が湧いてきて、未来のことを考えると(正確には妄想すると)、楽しくて仕方がありません。 それもひとえに、今のスタッフがいるから可能性があるのであって、この歳になって本当にスタッフに心から感謝することができるようになりました。 思い出せば、楽しい時も、辛い時も、スタッフと、そして心温まる沢山のお客様に助けられました。 接客しながら、5分に1度程のペースで冗談を言っては、泣けるほど私を楽しませていただきましたJさんや… 数々の苦難を乗り越え、二人で家具を購入し、これから共に新たな人生を歩みだしたSさん。 うちのスタッフの皆も、随分とお客様に助けられたのではないでしょうか?こちらは、とっても笑顔の素敵なK様。配送時、ご主人が不在で一緒に写真が撮れなくて残念がっていた店長。 子供が産まれると、そのたびに家具を買いにお店に来てくれたお客様も沢山いらっしゃいました。 こちらは私の大切なお客様のN様。 納品にうかがうと、「僕のソファーだ!」なんて言わんばかりに占領するお子様を見ると、自分も自然と笑顔になれました(*^_^*) こちらはミドリのお客様で、I様の息子さん(*^_^*) 時には納品の際、奥様に腕まで組まれちゃったりして(笑) ご主人。うちの店長が失礼いたしました(*^_^*) 当時、最初にホームページを製作した元店長のユウ君が、最初にトップページの画像に選んだのはうちの息子、テッペイのこの写真。 遊び道具のひとつであった、我が最初の頃のAFオリジナル「ジェラード」のテーブルは随分と年季が入って、今ではヴィンテージの風合い。 そして息子も大きくなりました(*^_^*) 家族と共に歳をとり、家族と共に成長し、深みが出てくる我々の家具は、もはや家族とひけをとらないくらいに「大切なモノ」であることに間違えございません。 まだまだ夢の道半ばではありますが、これからも多くの人に「幸せ」をお届けできるように、精一杯頑張ります! ふぅ~~~(^。^)y-.。o○ いい思い出にふけてしまった…。 ボチボチ仕事を再開しますのでこのへんで(笑) そういやきょうはブログで何書こうとしてたっけな?!笑 それでは皆様、ごきげんよう(*^_^*) 宮本 豊彰 Vintage Factory produced by MIYAMOTO-KAGU INTERIOR SHOP MIYAMOTO http://www.miyamoto-kagu.net Vintage Factory http://www.vintagefactory.jp/ スポンサーサイト
|
相澤 行広 という男
|
- 2013/10/16(Wed) -
|
今から3年程前になるだろうか。 2010年春。 つくづく思うのだが、かけがえのない「出逢い」というものは、いつなんどきに、どんなタイミングで訪れるのかを知ることは、誰にも予想はできない。 学生時代、先生のいう事は聞かない。授業はさぼるは校則は守らない。いじめっ子。友達は不良がほとんど。成績は当然よくなく、好きな教科は体育(笑)。 そんな絵に描いたような出来そこないの私が思うコト。 19で父親が死んでから、真面目に生きていこうと決めた20代。 その後、まさか30を超えてからの出逢いに、こんなにも生涯お付き合いしていきたいと心から思えるヒトに出逢えるということを、想像すらしたこともない。 自分は「ツイてる」 なんて思うとしたなら、20代を超えてからの、“ツイてる”としか考えられない「出逢い」と思う。 大柄で、どこかしらカワイイ風貌。そして、人一倍優しくて、人情派。 私も息子も大好きな、「湯来楽(ゆらら)の湯」の経営者でもお馴染みで、建設業・福祉サービス・不動産・保険・障害者就労支援、そしてなぜか農業に至るまで、幅広い分野で活躍。 その名は、 相澤建設株式会社 代表取締役社長 相澤 行広 私の、尊敬する経営者のひとりである。 得てして、生涯お付き合いしたいと思える友人やお客様にしてもそうなのだが、最初の印象が特段よく思えないヒトほど、最終的に「とてもいい出逢いだった」と思えるのはなぜだろう。 出逢ってしばらく。 私とは住む世界が違うと思っていた相澤さんと、打ち解けるまでには随分と時間がかかった。 あらゆる専門分野のヒトが、どんな話題を投げかけようと、100%以上の返答が出来る博学な相澤さんに、私はとても憧れた。 自分も、いろんな知識を吸収して、いろんなヒトと対等に話が出来るヒトになりたい!なんて思った日も、 家具だけじゃなく、広い分野に渡って豊富な知識が身につけば、もっと世界が広がるのかも! そう思うようになったのも、相澤さんと出逢ってからだった。 それから時は過ぎた。 何一つ、接点のなさそうな私と相澤さんだが、何を境にか、いつしか私はいろんな悩みや苦悩を恥ずかしいとさえ思うことなく、相澤さんに相談するようになっていた。 もはや、普通の創業者ではあり得ない大会社の社長が、私のような家具屋のいち経営者の話に、本気になって耳を傾け、相澤さんはいつも私の相談に、全力で応えようとしてくれた。 忘れもしない。 今からちょうど一年前。 2012年夏。 特別、仲の良い私の仲間との飲み会の席を終え、帰り際、私は相澤さんとふたり。 夜も更けた総曲輪を、二人で静かに歩いた。 「みやもっちゃん。仕事はどうや?」 と聞く相澤さんに、私はありのまますべてを話し、相澤さんは旧西武前の総曲輪道り前で立ち止まった。 平日の、少しだけ肌寒い。そんな静かな夜だった。 立ち止まってからの約3時間。 途切れることなく、自分の苦悩や会社の思いを話し続ける私と、いつものように本気になって応えてくれる相澤さん。 深夜2時を回り、時の経つのも、一瞬忘れた。 そしていつも、相澤さんと話していると、屈託のない笑顔と、物腰が低く、冗談も言っては私を楽しませてくれるその人柄に、社員400名以上を束ねる会社の社長であることを、忘れることすらある。 しかしながら当然に、 経験してきた仕事の楽しさも、苦労の数も、私の比ではない。 あの日、相澤さんは、何度も繰り返して、私にこう言った。 「今のみやもっちゃんは、成長しようとする経営者が、誰しもいつかは通る道を歩いている。悩んでいることも、その時期に訪れる、正常な悩みなんだよ。」 あれから丸一年が過ぎた。 昨日、とある勉強会の合宿の場で一緒になった相澤さん。 一通りの予定を終えて、私は皆が寝静まった夜中の喫煙室で、相澤さんとふたり。 「みやもっちゃん。こうしてミヤモト家具は今でも元気に存続している。克服したんだよ。不思議だよね~。こうして会社は壁を乗り越えるたびに、強くなっていくんだから。」 この合宿の前日。 知り合って初めて、相澤さんがミヤモト家具にやってきた。 「4年越しに、やっと来れた!」 そう笑いながら、奥様を連れてソファーを買いに来た相澤さん。 隅々まで、ミヤモト家具の小さな小物まで手に取り楽しむ相澤さんが、帰り際、私に言った言葉が忘れられない。 「みやもっちゃんの店が、自分の想像を遥かに超える、こんなにもいいお店だったコトが、本当に嬉しかった」 それを聞いて、私は初めて、ヒトから褒められたような感覚におちいった。 店に来るまでのあいだ。きっと相澤さんは、自分の応援しているミヤモト家具が、いい店であってほしいと願ったに違いない。 嬉しくて嬉しくて、私は相澤さんが帰ってから、胸が熱くなり、人知れず泣いた。 最近、私はつくづく思うのだ。 経験してきた楽しみの数は勿論、時には悔しくて泣いた日も、苦労してきた数や、それでも背を向けることなく、克服してきた数が多ければ多いヒトほど、ヒトは他人に優しくなれるのだと思う。 先日、 「相澤さんの目標や夢はなんですか?」 と、聞いてみた。 理論派で、物事を冷静に理論付けて考える相澤さんのことだから、凄い答えが出てくると期待した。 すると、 「売上げ目標には固執していない。それより、お客様に、自分が思い描いた最高のサービスを提供すること。それだけですよ」 というシンプルな言葉の中に、私は「本物」を見たような気がした。 相澤 行広 43歳 趣味は知らない。 好きなアイドルはAKBのコジハル(笑)。 人知れず人情派。 「私も息子も、うちの店長も、み~んな湯来楽(ゆらら)の湯が大好きなんですよ~」 というと、必死になってその場で財布から「無料券」を探しだそうとする可愛い相澤さん。 誰よりも、将来、私が思い描く新店舗を心待ちにし、ミヤモト家具をいつも応援してくれる相澤さん。 彼もまた、私の “大切なヒト” である(*^_^*) 宮本 豊彰 Vintage Factory produced by MIYAMOTO-KAGU INTERIOR SHOP MIYAMOTO http://www.miyamoto-kagu.net Vintage Factory http://www.vintagefactory.jp/ |
宮本 ゆる子 という女
|
- 2013/08/30(Fri) -
|
先日、平成25年8月26日。午後6時。 うちのバアさんが他界した。 つい4日前の話で、あまりにもバタバタしていたせいか、今さらになってようやく 「うちのバアさん死んだんだなぁ~」 って、実感し、今さらになって悲しくなってきた。 私は19の時に父親を。 その後数年後に祖父を亡くし、喪主はこの歳で2度目である。 家族が元気な方に伝えておきたい。 家族が亡くなった時、まず最初に感じるのが「後悔」だ。 あの時、何であんなことを言ったのか。 あの時、何でもっと話をしようとしなかったのか。 あの時、何でもっと優しくしてあげられなかったのか。 いなくなってからでは、どちらにしろ、すでに遅い。 特に、今週の休みの水曜日に、久しぶりに息子を連れて顔を見に行こうと思っていたから、なおさらキツイ。 そういや、バアさんが体を壊してからというもの、ふたりで何処かに出掛けることもなかったなぁ~。 ここ何年も、私とは別居で、うちの母親とマンションで暮らしていたから、毎日会うこともなかった。 たまに、私が歩いている後姿を、車の中で目撃することがあったというバアさんは、うちの母親にこう話していたそうだ。 「とよ君が頑張ってくれたから、家族みんな元気でいられる。ほんと~に、立派なお店にしてくれた」 そう話しては、よくうちの母親の前で泣いていたそうだ。 今のミヤモト家具があるのは、バアさんが切り盛りしていた、前身の「宮本タンス店」があるからこそだ。 随分形を変えてしまったことに、申し訳ないという気持ちもあるが、その時の「魂」は、しっかりと受け継いでいるつもりである。 昔、学生の頃、 「とよ君!こんなバアさんでも、死んだら寂しかろ?」 と何度も聞くバアさんに、 「はいはい。寂しい寂しい」 と、聞き流していたけれど、 バアさん… 予想以上に、寂しいな…。 私が、ミヤモト家具をし始めた12年以上前、家族の残した莫大な借金を前に、若い私は、家族を恨むこともあった。 バアさんに、嫌な事もさんざん言った。 若きし頃のナントかと言うけれど、家族の本当のありがたさは、子を持ち、守るべき従業員や仲間を持って、初めて分かるものも多い。 今年の3月。 バアさんに旨いモノを食べさせてあげようと思い、今は無くなってしまった銀鱗さんに連れて行った。 「とよ君。ありがとう。ありがとう。」 と何度もお礼を言われた。 帰り際、バアさんがあまりにも嬉しそうな顔をしていたから、嬉しくて、写真を1枚撮った。 まあ、さんざん親不孝に、バアさん不孝をしてきた私が言う事でもないのだが、私が嫌おうと、そういえばバアさんに嫌われたことは無かったな。 それが、家族と言うものなのか? クドイようだが家族が元気な方に伝えておきたい。 亡くなった後に残るのは「後悔」。その次に「感謝」だ。 私が何を言おうと、何度も嫌っても、不思議といつも愛情いっぱいに受け止めてくれた。 一時、嫌ってゴメンよ… バアさん。 お店を残してくれて、本当にありがとう。 宮本 ゆる子 享年91歳 前身の、「宮本タンス店」を支えた、偉大なバアさん。 彼女もまた、私の、“大切なヒト”である(*^_^*) 宮本 豊彰 Vintage Factory produced by MIYAMOTO-KAGU INTERIOR SHOP MIYAMOTO http://www.miyamoto-kagu.net Vintage Factory http://www.vintagefactory.jp/ |
大野 雄也 という男
|
- 2013/06/27(Thu) -
|
今から5年前の、2008年 春。 宮本 豊彰 当時32歳。 東京生まれ東京育ちの、ひとりの男がミヤモト家具に入社した。 名は、大野 雄也 当時23歳。 芝浦工業大学を卒業後、新卒にて弊社にやってきた大野(以下、ユウ君)。 持ち前の明るさと、とても愉快な性格で、ミヤモト家具に馴染むのに全く時間もかからず、仕事が全てで、家庭や家族のコトも顧みるコトもなかった私は、当時、とっても救われた。 いつも明るく、前向きに仕事に取り組む彼を見て、 「自分はもう、ひとりじゃないんだな」 そう思ったと同時に、東京から富山に送り出してくれた親御さんの為に、「富山に行かせて良かった」って。 いつか東京に戻ることを知っていたからこそ、そう思ってもらえるように彼を一人前にしたいと思った。 当然、富山に友人知人がいるわけでもないユウ君に、寂しい思いをさせてはならぬと、会社の休みの日は、できるだけ自分が、いろいろな所にドライブに連れて行ったりもした。 ラーメンが大好きだったユウ君を、いろんなラーメン屋に連れて行っては、「ウマかった!まずかった!」などとたわいもない会話をした。 「富山は最高だ!ミヤモト家具に来てよかった!」 そういって、私に気遣ってくれていたのか、楽しそうに話をしては、私を喜ばせてくれた。 あの時、うちで中心となって働いてくれた、ユウ君と杉田君は、私の自慢の社員だった。 実は、ほとんど当時のお客様には話していなかったが、ユウ君は私の従兄弟。 幼い頃、富山に遊びに来ては、まだ小学生だったユウ君は、盆や正月に遊びに来るたび、帰り際にこんな話をしていた。 「とよ君!(私です!笑)、今度来たときは、午前中に~して、お昼からは~に行って、夜は~して遊ぼうね!」 と、名残惜しむように話していた。 その後、私は高校生になり、年頃からか、友人との予定を優先し、ゆう君が富山に遊びに来ても、遊んでやる時間の取れない日もあったりで、ユウ君が帰ってからよくこんな事を思っていた。 「なんであんなに自分と遊ぶのを楽しみにして富山に来たのに、何で遊んでやんなかったんだろう」 そう思っては、よく、帰ってから後悔していたのを、今でも思い出すのだ。 それから月日は流れた。 ユウ君が入社後、ミヤモト家具は、歳を追うごとに成長した。 次第に忙しくなるにつれ、私はいつの間にか、彼がいることが当たり前になり、あまり気に留めることもなくなった。 私の息子も幼く、自分のコトと、会社のコトで精一杯で、私はいつしかユウ君さえも顧みず、次第に会話も少なくなった。 それから3年後。 ユウ君は東京に帰ることになった。 彼が東京に帰ってから、私は自分が高校生の頃に抱いた感情と、全く同じ感情に襲われた。 なんでもっと、楽しい想いをさせてやれなかったのか。 今でも、ただただ後悔だけが残ってしまった。 先日、 東京まで、ユウ君の結婚式に参加した私は、特別その日、彼と話をすることもなく、富山に戻った。 その後、久しぶりに富山に、そしてミヤモト家具に現れたユウ君は28歳。 同級生のお嫁さん、ユキちゃんを連れてやってきた。 数か月だけ、一緒に働いた経験のある、現店長の涼君と、ちーちゃんを連れて飲みに行ったのだが、しきりに、 「ミヤモト家具での経験が、今の仕事に本当に生きていると思うし、いろんなことでに為になった。」 と、昔と変わらぬ、屈託のない笑顔で語るユウ君。 彼と私は従兄弟ということもあり、ユウ君のお袋さんとは、今でもメールをしたり、仲良くしている。 先日、結婚式の後、もらったメールには… 「雄也は、富山でとよ君に育ててもらったからね。とよ君と働かせてもらった年月を大事にして、これからの仕事に生かしていってほしいです!」 そのメールを見て、私は当時を振り返った。 どう転んでも、私の力不足は明らかで、貴重な経験をさせてやれたとは思えにくいし、なんでもっと、ユウ君らしく、楽しく、のびのびと仕事をさせてやれなかったのか。 なんでもっと沢山、楽しい話をしたり、いろんなところに連れてって、心に残る思い出ををつくろうとしてやらなかったのか。 今のミヤモト家具なら、もっともっと楽しませてやれたのに。 後悔ばかりの残る私の気持ちの中では、100歩譲っても、ユウ君やお袋さんの言葉は、私には当てはまっていないと思う。 では、自分はどうなのか? ユウ君がいてくれたお蔭で、私は沢山元気と勇気をもらったし、会社も大きくなった。 私はきっと、ユウ君からは貰っていただけ。 私からは、何一つ、きっと与えていない。 ただ、私は、こうして幸せそうなユウ君と、お嫁さんのユキちゃんの顔を見て、実はちょっと救われる。 どんな遠回りをしてでも、ふたりは幸せになったんだなと思うと、私はとっても救われるのだ。 人生は、なかなか頭でわかっていても、思い通りにはいかない。 後悔しているのは、逃げ出さずに、前に進んだ証拠なんだと、私の友人が言っていた。 相手がどう思っているかじゃない。 今の自分が、どう思い、どう感じているのか。そんな気持ちや、これからどう付き合っていくかこそが、大事なコトなのではないかと思うのだ。 先日の結婚式に出席した後、私はそんなことを思っていた。 二人は、東京での学生時代に知り合い、お付き合いを始めたというが、彼が富山に来て、遠距離恋愛になった「すれ違い」が、別れたきっかけっだったのかな。 だが、二人はこうして結ばれた(^_^) 大野 雄也 28歳 東京育ちの、ミヤモト家具、元2代目店長。 彼もまた、私の、大切な“ヒト”である(*^_^*) 宮本 豊彰 Vintage Factory produced by MIYAMOTO-KAGU INTERIOR SHOP MIYAMOTO http://www.miyamoto-kagu.net Vintage Factory http://www.vintagefactory.jp/ |
ポンコツ(>_<) ライトエースぶる~す!の巻
|
- 2013/05/05(Sun) -
|
私が初めて買った車は、トヨタのライトエースだった。
当時、極端にお金がなかったので(笑)、仕事をする車だけは確保しなければと、買ったライトエースの価格は50万円。 当時20代半ばの私には大金だった。 いわゆる商用車と呼ばれるライトエース。それでも、やはり自分の車ということでとても気持ちが良かった。 配達もないのに乗り回しては、汚れてもないのに意味も無く洗車した。 何がそこまでの気持ちにさせたのか分からないのだが、何故だかとても楽しかった。 家具屋を始めて間もない私が、最初の頃ににお世話させていただいたのが、富山市草島にお住いのH様。 初めてのお客様だったので、いつも以上に張り切った。 一式をご購入いただいた後、納品にもお伺いした。 喜んでもらいたい一心で、汗だくになって頑張ったのだが、反応が今一つで、何が悪かったのだろうかと、しばらく悩んだ。 二日後、H様から電話が入った。 「社長さん、ちょっと来てもらえないか?」 クレームかと思い、ドキドキしながら伺うと、居間に置く棚が欲しいとのコト。 嬉しくて、すぐに提案し、配達。 「ありがとうございました!また、何かあれば遠慮なく言ってください!!!」 と話すと、普段無口で、何も語ろうとしない旦那様から、こんなお言葉をいただいた。 私の、忘れもしない言葉である。 「社長さん。ワシは日曜大工が得意だから、棚くらいは自分で造れる。でも… ワシはアンタに頼みたかった。アンタ、一生懸命やってくれるから、ワシ、アンタに頼みたかったんだ」 帰り際、あまりに嬉しくて、ホントに泣いた。 我がライトエースのハンドルは濡れて、服はグチョグチョになった。 嬉しい時も、悲しい時も、いつも一緒だったライトエースは、私にとって「ヒト」と一緒の存在だった。 その後、動かなくなったライトエースは、後日、廃車になることが決まり、一升瓶を持って最後の姿を見に行った。 なでたり、たたいたりしながら、お疲れ様と言って、車の荷台に一升瓶を入れ、 「ありがとう」 と何度も言った。 車を廃車にすることが、これほどまでに悲しいのだと、当然知る由もなく悲しくて悲しくて仕方がなかった。 私は現在、ハイエースに乗っている。 ちなみにこんな感じ。 「なんで、車買わないの?」 と、よく聞かれる。 「車に興味が無いから」 と、言うのだが、 車に興味の無い男も、そうはいない。私もしかりだ。 うちのスタッフのみんなが、欲しい車に乗れるようになったときに、自分も買おうと思う。 が、今はこのハイエースを愛している(笑)。 きょうはそんな車好きの方に、一曲お届けしたいと思う。 日本一のコミックバンド(笑) いや、青春バンド!爆風スランプより。涙もろい方。要注意です(笑) それでは皆様、ごきげんよう(*^_^*) 宮本 豊彰 Vintage Factory produced by MIYAMOTO-KAGU INTERIOR SHOP MIYAMOTO http://www.miyamoto-kagu.net Vintage Factory http://www.vintagefactory.jp/ |